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2008/04/10
「かけがえのない私である事」の幸福:「名前の格差」とは何か?

執筆者: murata (9:43 pm)
昨日、精神科医の斎藤環さんが、NHKの「視点・論点」に出演して、最近相次いだ若者による「誰でもよかった」という無差別殺人について論評していました。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/8078.html#more


斎藤環さんは、「社会的ひきこもり研究」の第一人者です。(「オタクの理解者」という側面も持っていますので、「オタク」と「ひきこもり」の違いを最も良く判っている人でしょう。)

そして、普段から「若者犯罪」へのメディアの過剰反応を批判しています。つまり、若者を「理解不能なモンスター」と見なしたりする事や「あなたのお子さんもいつかは…」と問題を一般化しすぎて不安を煽ったりする事を批判しているわけです。(同時に大衆がそれを「娯楽」にしてしまっているという事を、「現実」として認める立場を取っています。)

また、犯罪についてやたらと心理学者や精神科医にコメントを求めてしまう「社会の心理学化」という風潮を批判してもいます。なぜなら、心理学的な枠組みで考えすぎる事が、人々の「気質」を「病理」へと悪化させてしまう原因にもなっているからです。
まるで、禅問答みたいな話ですし、ソフトウェアの世界でいうところの、「分析地獄アンチパターン」にも通じる話ですね。

さて、それなのにどうして今回、斎藤さんはNHKに出演したのでしょうか?

それはおそらく、メディアの過剰反応のきっかけにもなった、「神戸連続児童殺傷事件」や「西鉄バスジャック事件」の時とは、若者犯罪の様相が異なってきているからだと思います。

斎藤さんは、その頃との違いとして「名前の格差」が生じてきている事を指摘しています。「名前の格差」とは、システム化された社会の中で、「単なる”手段”としてしか見てもらえない無名(匿名)の人たち」と、「存在自体を”目的”として見てもらえる有名の人たち」との格差が拡がって居るという事です。

こうした傾向は、「自殺」と「他殺」の距離を縮めてしまいます。
現に最近起こった2つの事件では、どちらの容疑者も捕まる事を前提に行動しています。一方には「警察への挑発」があったものの、「犯行声明」や「犯行予告」と言った様な「自己顕示」の意味合いは薄く、単純に「絶望」から「自暴自棄」になった末の犯行で、意味合いとしては「自殺」に近い「他殺」という事になります。

「誰でもよかった」というのは、「殺された人」に向けてだけの言葉ではなくて、「殺した人」である自分自身にも向けられた言葉だと、斎藤さんは指摘しています。

これらの事の背景にあるのが、「実存の不安」であり、それは「名前の格差」の「負け組」たちに顕著に現れているわけです。

「実存の不安」とは何か?
単に死ぬ事を不安がる場合は「生存の不安」なのですが、自分の存在意義を不安がるという事が「実存の不安」です。

キルケゴールが「絶望とは死にいたる病である。」と言った時の文脈に出てくる、「死」こそが、「実存的な死」なのです。

2007年に、当時31歳のフリーターである赤木智弘さんが「希望は、戦争。」という副題の論考を発表して論壇に衝撃を与えました。戦争くらいの事が起こってくれなければ、こうした格差を再び流動化させる事はできないという意味です。それに対して、「自分も死ぬかもしれないじゃないか?」という批判が出たわけですが、赤木さんは「経済弱者として惨めに死ぬよりも、お国の為に戦って死ぬほうが、よほど自尊心を満足させてくれる。」と応えています。

もちろん戦争はあってはなりませんが、赤木さんの叫びこそが「実存の不安」であり、「実存的な死」に抗う姿勢でもあると、私は考えます。

ジェラルド・M.ワインバーグは、古典「プログラミングの心理学―または、ハイテクノロジーの人間学」の中で、「もし、あるプログラマがかけがえのない人物だというなら、彼を出来るだけ早く追い出せ。」と、「エゴレス・プログラミング」を提唱し、それが今日の「ペア・プログラミング」や、「エキストリーム・プログラミング」へと繋がっています。

しかし、これが行き過ぎてしまうと、ソフトウェアの開発者は「誰でもよい」という事になってしまい、実存的には死んでしまう事になってしまいます。

斎藤さんは番組の最後に、カントの言葉を引用しました。

「理性的存在者は全て、その各々が自己自身と他の全ての者を、決して単に手段として取り扱わず、常に同時に目的それ自体として扱うべし」

つまり、ある人を、単に「手段」としてのみ遇するのではなくて、「目的」としても遇するべきであると言う事です。この事をいかにして、社会のシステムに倫理として取り入れていくのかが、これからの社会の課題なのです。

そういう訳で私は、私をまだ実存的に生かしてくれているJUDEチームの皆様に感謝を捧げます。
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